2019年12月6日(金)
『渋谷能』第七夜 千秋楽

能楽の未来を担う若手能楽師が流儀の垣根を越えて集まり、現代と伝統の世界とを結ぶ注目のプロジェクトBunkamura30周年記念「渋谷能」。第七夜の公演レポートをお届けします。

「渋谷能」第七夜は、3月から始まったシリーズ公演の最終日。千秋楽と位置づけ、シテ方五流の舞囃子を「五番立て」にし、立ち合い形式を一晩で楽しめるというとても豪華な舞台でした。
能は「神」「男」「女」「狂」「鬼」と5つのジャンルに分類されます。今回の公演ではそれぞれを五流で順に舞って見せてくれました。舞囃子は、面(おもて=能面のこと)をかけ装束を身に付けて演じる能の舞台とは異なり、紋付袴姿で地謡とお囃子に合わせて舞います。能の中心となるエッセンスが詰まった、「見せ場」を抜き出して見せてくれるという形です。

■『高砂 舞序破急ノ伝』 本田芳樹(金春流)

最初は金春流の『高砂』から。「高砂や~」という謡い出しは、披露宴などでも聞いたことがある人もいるでしょう。翁・媼の姿になっても夫婦として一緒にいるという高砂・住吉の相生の松を描いためでたい曲です。物語の後半で住吉明神が若い男性の姿現れるのですが、舞囃子はこの場面を舞っていきます。
地謡のひとりが「高砂や~」と謡いだし、途中からお囃子が続きました。「はや住之江に着きにけり」までひと通り謡い終わると、テンポの速いお囃子が続きます。シテは初め座ったまま謡い始めます。地謡が引き継いだところで立ち上がり、舞が始まります。今回は「舞序破急ノ伝」という小書(特別演出のこと)が付いているため、より緩急の差がはっきりとして心地よく、颯爽とした舞を楽しめました。

■『屋島』 観世淳夫(観世流)

源義経(牛若丸)が出てくる曲はたくさんありますが、現行曲で義経がシテとして登場するのはこの『屋島』だけです。屋島の合戦時、命より名を惜しみ危険を顧みず落とした弓を取りに行くという「弓流し」のエピソードが描かれた曲で、源氏という勝ち方の武将であっても、修羅道に落ちて苦しむ義経の亡霊の姿を舞っていきます。
座ったままシテの謡が始まり、それを受けて地謡、お囃子。しばらくは謡で状況が展開されます。やがて義経が合戦を語り、なお戦の場で敵を求め修羅の世界に堕ちている様子を舞で表します。強い足拍子も若い武将らしく、戦の有様を再現する姿は勇ましく誇らしげです。しかし同時に、堕ちた自分の浅ましさや、「カケリ」の所作で見せつけられた修羅の苦しみに悶える武将としての性(さが)に、哀れさも感じられる舞台でした。

■『雪 雪踏之拍子』 金剛龍謹(金剛流)

冬の冷たい空気のなか降る雪。なぜ出現したのか自分でもわからないという雪の精である女性が成仏を願う物語で、金剛流のみで上演される曲です。舞囃子では雪の女の謡からはじまり、地謡のひとりがそれを受けます。続いて地謡全員の謡とお囃子に合わせて立ち上がり、舞が始まります。
全体を通してゆったりと静かに進む舞。今回は「雪踏(せっとう)之拍子」という小書が付いているため、太鼓の入る序の舞には、ゆったりした中でもリズムを感じられます。笛も通常と違い盤渉(ばんしき)調という高めの音を出して変化をつけています。お囃子に合わせて踏む拍子は、普通なら音が響いてくるところですが、この舞では雪の上を静かに踏む様子を表すため、全く音を出しません。雪の世界がもたらす静寂さを舞であらわす美しさ。しんしんと降り積もる雪が擬人化されたらまさにこんな姿なのかと思わされます。どこまでも優雅で美しい、世俗とは離れた夢のようなひとときでした。

■『安宅』 和久荘太郎(宝生流)

こちらも義経が出てくる作品ですが、主役はその従者・武蔵坊弁慶。歌舞伎『勧進帳』の元となる曲です。兄・源頼朝と不和になり、東北へ落ち延びる義経一行が、途中通り抜けようとする北陸の安宅の関が舞台。能では、前半は素性を隠したまま安宅の関を通り抜けようとする弁慶らと関守との丁々発止のやりとりが繰り広げられます。後半は、うまく切り抜けられたものの、まだ疑いをもつ関守に請われて弁慶が延年の舞を舞うのですが、舞囃子ではこの場面を抜き出して見せてくれます。
弁慶が「げにげにこれも心得たり~」と謡いだすと、地謡やお囃子もそれに続きました。関守から酒をすすめられ、請われるまま緊迫した空気感のなか始まる弁慶の延年の舞。勇壮で力強い足取りの「男舞」は主君を守るための覚悟の舞です。地謡との掛け合いや強く響き渡る足拍子には、弁慶の決死の想いが伝わってきます。関守が「納得」した後は、晴れ晴れとした様子の佇まいで締めました。

■『猩々乱』 佐藤寛泰(喜多流)

酒を売って生計を営む男の元へやってくる猩々。空想上の生き物で海中に住むといわれています。後日、猩々に言われるまま酒売りが岸辺に向かうと猩々が現れ、いくら汲んでも尽きない酒壷を渡されます。そして猩々は酔った足取りで波に揺られながら舞うのです。舞囃子では、既に酔って機嫌がよくなっている猩々が謡い舞います。初めのほうは普通の舞に見えますが、次第に足取りがおぼつかなくなる様子を色々な足の運びで表現していきます。抜き足して片足で立ったまま静止したかと思えばサッと向きを変えたり、中腰のままつま先で波を蹴立てたり……。また、波に流れるよう様子を小刻みに歩みながら横へカーブを描いて表す「流レ足」など、「乱」という特殊演出ならではの独特の動きがあれもこれもと目の前で繰り広げられました。
『猩々』は元々おめでたい曲。ただ酒に酔ってヨロヨロとしているだけではなく、尽きることの無い命の水を、そして家の栄えを寿ぐ喜びを全身で表す猩々の姿に、私たちも幸せな気分をもらったように思えます。


■クロージングトーク


五流の舞囃子の後は、「渋谷能」の締めくくりとしてクロージングトークが行われました。金子先生の司会・進行で、先ほど舞い終えたばかりの能楽師の皆さんに感想などを伺いました。

今回の舞囃子についてそれぞれの感想
本田:トップバッターでやらせていただきましたけれども、各流華やかな舞台のなかで、まぁ、なにか見せられるものがあったのならば良かったなと思いました。

観世:私は皆さんに比べて拙くて若輩者なので、緊張したとしか感想が無いんですが、誠にありがとうございました。

金剛:私自身も、(ほかの)皆さんの舞台を拝見していて、あらためて五流の流儀・芸風の違いというものを実感いたしまして。それを皆さんにも感じ取っていただければ嬉しいなと思いました。

和久:今日は立合いという形で舞囃子を舞わせていただきました。今回、私が一番年上だと思って「これは負けられないな」という気負いもありましたが、他の流儀を見ることによって自分の流儀についても考えさせられる、そういう催しだと思いました。

佐藤:喜多流では『猩々乱』は重く扱っているのですが、3月から始まった「渋谷能」の最後で舞わせていただくことについて、喜びもありながら恐れや緊張もありました。「渋谷能」で他の流儀の方の能を観ていると、能に携わっている人間でさえもこれだけ面白さを感じられるんだと実感できる、いい場だったと思います。

今回舞った曲について
金子:「舞序破急ノ伝」ってよく出るんですか? 囃子と合わせるのが大変では。

本田:そうですね、舞囃子では結構出るかもしれません。『高砂』の小書のなかでは一番出る小書ですね。今日は東京だけでなく、いろんなところから笛の方、大鼓の方に来ていただいているので、ちょっと緊張感もありつつ、うまく合うか、やってみて楽しみがあったと思います。

金子:『屋島』では前半、地謡がずっと続くわけですが、活躍のシーンが少なくて残念だったように思えるんですが(笑)、でも弓流しの際の心情を聞かせることで後半のカケリから修羅道へというところが活きてくるのでしょうね。

観世:普通の能の時だったら床几(に座る場面)ですし、小書というか「大事」になると、鼓の床几になりますし、何も動かないところというのが大変なんですけれども、お客さんの集中が切れてしまうところがあると思いますし。今日は動かないようにしました。皆様と同じように屋島の合戦を思い浮かべながら、私たちも地謡を聞いて心の中で一緒に謡っているつもりでおりました。

金子:『雪』の純白感というか、今日は面・装束をつけていらっしゃらないんだけれども、そういうものが伝わってきた気がします。

金剛:『雪』は金剛流だけ伝わっている曲でございますけれども、今日は太鼓入りでさせていただきましてね。(太鼓入り・無しの)両用なんですけれど、普段は太鼓無しでやっておりますもので。今日はしんしんと降り積もる雪というよりも派手な雪という感じでした。雪の降り積もる清浄な世界というものもね、面・装束や作り物も何も無しで、というのは難しいもので、やってみてあらためて『雪』という演目の難しさというものも実感しました。

金子:和久さん、「立合い」ということで相当気合いが入っている感じでしたが。

和久:人のやっている『安宅』を観ていても、あぁ凄いなと思うんですけれど、あれを私は一生やることはないなと思っているんです。私は弁慶像からは程遠い、痩せっぽっちな感じなんで。「能は芸でみせる」とはいいますけれども、やっぱりお客さんは弁慶らしい人……辰巳満次郎さん(宝生流)とか、ああいう人だったらそれらしいなと思われるだろうけれど。私みたいなのが弁慶やったって、なんだかヘナチョコだなと思われるのがオチで。舞囃子でならこの細い手首でもなんとかやっちゃえるかなと思ってやらせていただきました。

金子:『安宅』は能になっても直面(ひためん。面をかけずに素顔の状態のこと)ですものね。さて、佐藤さんお疲れ様でした。汗が……(笑)。やはり、肉体的には相当に厳しいですかね。

佐藤:能楽師の人生においても、「披キ」として初演でやるものがいくつかあるんですが、喜多流では『猩々乱』が最初にありまして、その後に『道成寺』『石橋』となっていくわけです。何かを表現するというよりは、肉体を使って表していくというのは……上の方の先生が仰るには、「乱」をずっと稽古していけば、長い能楽人生のなかで必要な筋力や色々なものが培われるということを何度か聞いたことがあります。

これからの「渋谷能」へ
「渋谷能」の世話役として名を連ねた友枝雄人、成田達志両名からのコメントもありました。

友枝:今日、立合いということでしたが、蚊帳の外だと気軽にお弁当を食べられるんですが、皆さんのいる楽屋は大変ピリピリしておりました。皆さん本当に大変だったと思うんですけれども、こういう緊張感がお客様に生で伝わる舞台がこれからの能楽界に必要なんじゃないかなと思いますので、またこういうクロージングで、ヒリヒリした舞台をつとめていただきたいなと思います。よろしくお願いいたします。

成田:今日のような立合能というのは、舞台をつとめているものからするとね、こんなにイヤなものはないんですよね。お客さんは「誰がいいかな」と見比べていらっしゃるところに、必死に頑張らなければいけない。特に私ども地方の囃子方が東京の囃子方と一緒に混じってやらせていただくというのは、一種独特の緊張感があります。普段はやり慣れておりませんので、研ぎ澄まされた感覚で皆さん舞台をつとめられておりました。いい意味で舞台の結果に現れていたんじゃないかと思います。

金子:今日はこれで終わりですが、来年からの始まりへのクロージングでもあります。皆様、ありがとうございました。 

出演|本田芳樹(金春流)、観世淳夫(観世流)、金剛龍謹(金剛流)、和久荘太郎(宝生流)、佐藤寛泰(喜多流)、友枝雄人(喜多流)、成田達志(小鼓方幸流)
司会|金子直樹(能楽評論家)
撮影|辻井清一郎