2022年9月2日(金)
『渋谷能』第二夜 観世流

約650年の歴史を持つ芸能“能楽”の未来を担う若手能楽師が集まる『渋谷能』。今年度のテーマは日本のもっとも有名な古典文学であり、様々な文化、芸能に影響を与えた作品「源氏物語」です。金春流・観世流・金剛流それぞれの公演とシテ方五流儀と大蔵流狂言が揃う千秋楽の全四夜を開催しました。

2022年8月26日(金)|事前講座

第二夜は観世流による『野宮』。事前講座ではシテをつとめられる鵜澤光師と能楽評論家の金子直樹先生の対談形式でした。今年度の渋谷能のテーマは「源氏物語」ということで、参加者に配られた資料には「源氏物語」典拠の曲目リストが載っていました。
鵜澤師は2022年の3月に『浮舟』の舞囃子を舞ったこともあり、「百番集」(謡曲の詞章が百番まとめられている冊子)を引っ張り出して「源氏物語」が元となった曲目を書き出してみたところ「意外と少ないな」というご感想だったようです。

「源氏物語」の女性の中で圧倒的に重い存在である六条御息所は、能の中でも「重い」ようです。六条御息所を描いた曲目には『葵上』『野宮』があり、『野宮』の上演時間はおよそ2時間。鵜澤師が「2時間もいきたくないですね」と声に出すと、会場から笑いが聞こえました。
六条御息所は今でいう「セレブ」の家の出。父は大臣であり、自身は先の東宮(皇太子)妃です(ただし夫である東宮が即位前に亡くなったため中宮にはなっていない)。16歳で結婚、20歳で東宮薨去、残された彼女は上流階級のサロンを開いていました。そして24歳の頃に7つ下の光源氏と出会うというわけです。

光源氏は藤壺の宮(光源氏の初恋の相手で父・桐壺帝の女御)への満たされない想いから様々に恋愛遍歴を重ねていきます。六条御息所も彼にとってはそのひとりに過ぎません。二人は最初のうちこそ逢瀬を重ねますが、六条御息所の出自や環境からくる誇り高さに、光源氏は次第に扱いづらさを感じ足が遠のいていきます。六条御息所にまつわる幾つものエピソードが「源氏物語」には描かれており、後に彼女は先の東宮との間にもうけた娘が伊勢の斎宮となるのをきっかけに、娘に付き添うことになります。伊勢に赴く前に潔斎する場が野宮にあり、ここが今回の曲目の舞台です。

続いて『野宮』の舞台についての解説へ。舞台に置かれる作り物、舞台正面に鳥居が置かれるのが特徴です。これまで、鳥居を置くことで結界と見るか否かという話があるとのことですが「舞台と見所を分ける結界だと隔てるのはよくないと思います」と鵜澤師が独自の見解を示しました。場面によって結界と見るのは「アリ」ですが、能楽堂内の空間全体が野宮の社であり、景色・風情と思ってほしいと。舞台で使われる榊についても「光源氏が差し入れて六条御息所はそれを取り入れる」ものとし、(鳥居にいるシテが見所に)真っすぐ背中を見せるというところでは、去っていく光源氏を見送るのを追体験する場面でもあると語りました。鳥居が非常に重要な役割をもつ舞台です。鵜澤師は加えて「自分が客席にいたらどう思うだろう」と思いながらやっているとのことです。

舞台の見どころ紹介の話では、参加者は配られた詞章を見ながら言葉を一緒に追っていきます。前回の『夕顔』と同じく、『野宮』でもシテの居グセの場面があります。やはりシテはずっと座ったまま動きません。この曲では、逃れられない大きな時の流れをひたすら受け入れるだけで自発的な感じがしない、という鵜澤師。自己主張せずに地謡(の文言)を咀嚼する姿勢であり、私たち観客は鳥居越しにシテを見る形となります。地謡を聞き、受け入れ、場を作り出していくシテはただ座っているだけではありません。休むのではなく長い間美しく座っていなければならない場面。鵜澤師は「覚悟している」そうです。ワキ方や地謡、囃子方が作っていく空間や場に自分がどう委ねるかが難しいとも話されていました。

六条御息所の光源氏への気持ちについては「好きなんでしょうね……」とひと言。好きで好きで仕方がない、光源氏への想いを断ち切ろうとしても揺れてしまう、また戻ってしまう。その一方、後場ではいわゆる「車争い」についての屈辱をうったえますが、屈辱だけでなく、落胆も大きかったのではという話に。

▲謡を披露する鵜澤師

後場で見られる序の舞では詞章に「野の宮の月も」という文言が出てきます。ここも鵜澤師はいろいろと考えるところがあるようです。「月は光源氏なのかなと……月が照っている以上は源氏のことが忘れられない。光を見ると源氏を連想してしまう。何か美しい、大きなものを見ると源氏を思い出す。彼女にとって辛い序の舞なのかと思ってしまう」。いったい六条御息所はどういう心情でいるのか。光源氏を常に思い続けて激情するくらいの女性ですので、それをお腹に入れつつ舞ってみようとのことでした。

物語終盤の「六条御息所ははたして成仏・解脱はあるのか」もこの曲で考えさせられるテーマです。詞章を見ても「また車にうち乗りて 火宅の門をや出でぬらん 火宅の門」と、彼女がハッキリと成仏したような終わり方ではないのです。鵜澤師は興味深い解釈を聞かせてくれました。「(火宅=現世から)フッと何も考えず踏み出してしまった。決意して出たのではないけれども、後悔するものでもない。でも越えたとしても、またぐるっと廻って繰り返すような。(六条御息所にとっての)解決が無いから回転してしまう」。『葵上』はきちんとやれば出来るけれど、『野宮』はただやれば良いというわけではないし、自分で手を加えるものでもないという難しさがあるといいます。「今の私と今の『野宮』の状況と繋がるところがあるかも」とも話しました。
『野宮』に限らず、能は舞台を観る側もその時の状況やコンディションで感じ方が異なってくるもの。どのような舞台になるのか、とても興味深いです。

最後に「光というワードで迫っていく様には『野宮』と重なる」ということで、仕舞『葵上』(枕之段)を舞っていただきました。六条御息所のへの思いと本番への意気込みが伝わってくるようです。
最後は大きな拍手で締めくくられました。

※講師:鵜澤光師(シテ方観世流)、金子直樹氏(能楽評論家)
※会場:セルリアンタワー能楽堂

事前講座の動画はこちら

2022年9月2日(金) |第二夜 観世流 『野宮』

能楽評論家の金子直樹先生の解説の後、いよいよ『野宮』です。

揚幕の向こうからお調べが聞こえた後、囃子方、地謡が舞台に登場。その後、黒木の鳥居と両脇に柴垣の作り物(舞台装置)が舞台前面に置かれます。

秋の冴え冴えと済んだ空気を思わせる笛の音が、少し冷えた空気感を作ると、静かに旅僧(ワキ)が登場しました。僧が言うには、秋も末、嵯峨野に心惹かれ野宮の旧跡についても人に聞いたので立ち寄ったとのこと。野宮は、伊勢の斎宮として神に仕える皇女・女王が潔斎のために滞在する場所です。 

長い囃子が深まる秋をあらわすように続いたあと、揚幕が静かに上がりました。
笛の音とともに、左手には扇、右手には榊を持ち、ゆっくりと姿を見せるのは里の女(前シテ)です。恋した心も身体も衰えていくまま、またこの旧跡に来てしまった。往時をしのんでここに帰ってきてもどうしようもないのにと語ります。

それはどういうことかと僧に問われた里の女は、さらに続けます。野宮は昔、斎宮が滞在していたがその慣わしはなくなってしまった。長月(九月)七日は斎宮となる娘(『源氏物語』では後の秋好中宮・斎宮女御)に付き添っていた六条御息所の元へ光源氏が訪れた日であり、携えていた榊の枝を挿し置いたのだと。

世は移り変わっても変わらない榊の色。今では荒れてしまった野宮に榊を供える里女。シテは舞台中央に進み、くるりと回りワキと向かい合います。その後正面を向き、膝をかがめると地謡の謡が始まります。野宮の旧跡、九月七日という日が今日また巡ってきた、なんと淋しい宮所なのか。
地謡に合わせシテは向きを変え佇み、物憂さをつのらせます。

何かわけがあるのかと、さらに詳しく話を促す僧。里の女が語る話として地謡が承けます。六条御息所の身の上――今を時めく東宮妃としての華やぎ、夫との死別、光源氏の出逢いと深まる仲、その後縁遠くなりつつも野宮まで訪ねてきた光源氏の心。なぜ斎宮となる娘に付き添って下向してしまったのかと。

この間、地謡と掛け合うようにシテの謡も入り、次第に里の女の真の姿が露になります。自分は亡者であり僧に弔いを求め、そして六条御息所は我であると伝えると、秋の風に揺らめくように姿を消します。

中入り後、野宮の神事のためにやってきたという所の者(アイ)が登場しました。僧に問われるまま、野宮の謂れや六条御息所について語ります。倭姫命から始まる伊勢の斎宮の慣わしや、後の秋好中宮が潔斎のために滞在した野宮に御息所もいたこと、そしてそこへ光源氏が訪ね榊を挿し入れたこと。そしてそれが長月七日であり、今日がその日であったと。御息所の心中はいかばかりか、心を残したままなのか、または昔の出来事に懐かしさを感じて現れたのか。
僧は御息所を思い、弔うことにしました。

後場では、弔い佇むワキの謡と囃子の音で場が作られます。
前場、間狂言で六条御息所の身の上を知り、行き場のない思いを感じさせられた上で、まさに満を持して六条御息所その人が長絹(ちょうけん)を身に着け現れました(後シテ)。舞台では実際に牛車に乗っているわけではありませんが、シテは牛車に乗って登場していることになっています。歩む姿に何か意思を秘めたような様子がうかがえます。底から響いてくるような声と謡で聞こえてくるのは、御息所が忘れることができない煩悶の記憶でした。
車争い。光源氏の姿を見たさに賀茂の祭にいけば、多くの見物人がいるなかで自分の小さな車は葵上(光源氏の正妻)の従者たちに奥へ押しやられてしまった、その時の屈辱と哀しみが自分を苦しめて輪廻の輪から抜けることができない……妄執を払ってほしいと僧に救済を乞います。

前シテとは異なり、高ぶった身体を動かしているかのよう。抑えきれない思いが舞となっていく様を目の当たりにしました。
秋の月の光のなかで、かつてを思い懐かしむ御息所の序の舞です。光源氏と時をともにした日々、どんな思い出があったのでしょう。

黒木の鳥居を仰ぎ、その先を眺める六条御息所。鳥居から外を見ているのか、それとも内を見ているのか。神域か俗界か御息所の魂の居場所はどちらにあるのか、また思いの深さは測り知れません。見所(客席)からは、観る人それぞれの思いで読み解く場面でもあります。
御息所の眼差しの先に何が見えていたのでしょうか。

伊勢へとつながる野宮へ毎年迷い出てしまうことは神様の思し召しにかなわないのかと車に乗り込む御息所は去っていきます。


▲能「野宮」鵜澤光(撮影:石田裕)

妄執の世界から脱して救われたい、どうしても心が戻ってしまい抜け出せない、抜け出したくない、御息所の真意を測りかねるところです。
最後は地謡の「火宅の門をや出でぬらん、火宅の門」で終わります。果たして御息所は僧の弔いによって迷い苦しむ世界から出られたのかどうかは語られません。観る人の心に大きな存在感と余韻を残したまま終演となります。おそらく、その後しばらくは六条御息所がどうなったかと気になる方も多いのではないのでしょうか。

終演後は恒例のアフタートーク。司会進行の成田達志師・友枝雄人師ともに大絶賛。シテをつとめられたばかりの鵜澤光師も加わり、舞台上で思いや装束などの話など、興味深いお話が展開されました。

 出演者スペシャルインタビュー|シテ方・鵜澤光師

■実感がわかないくらいのハードルの高さ
前回「渋谷能」のシテをつとめたのは『井筒』。それ以来のシテです。『野宮』はどうかというお話があったときに、師匠である観世銕之丞先生にお伺いを立てたんです。そうしたら「へぇ、いいじゃない。ありがたいと思いなさい」と仰ってらして。ちょっと面喰らいました。成田達志さん(小鼓方幸流)も友枝雄人さん(シテ方喜多流)もびっくりなさっていて。金子直樹さん(能楽評論家)もびっくりしちゃって「エー!」と。

もちろん『野宮』のシテをつとめるのは初めてです。先輩方がされているのを見て、憧れの曲、いざ自分がやるという時にはどうやるのだろうと、なかなか自分事として考えることができなかった曲ですね。ハードルが高い。どう高いのか、ただ闇雲に高い。でも結構若い人もトライする曲でもあり、私くらいの年齢でもトライしている人が多いです。どうやってこの曲と向き合っているのかなと、なかなか難しい。ハードルが高いよと言われても実感としてわいてこない。取り組んだことがないですし。

同じ六条御息所がシテである『葵上』は、どちらかというと、その時の感情を比較的しっかり出していく感じがします。でも『野宮』はもうひとつ裏側に回っちゃうような、感情的なものは内側に全部入れ込んじゃう。かつ、階層も違うような。『葵上』は現在進行形で描かれていますが、『野宮』は現在進行形じゃなく過去の話ですよね。つまり幽霊になっていて、次元が変わっちゃっている。そのため『葵上』の六条御息所のままでいけるわけではなく、量というか階層の深さが違うというか、非常に複雑です。

■六条御息所の不安定さと安定感を共有できれば
六条御息所という人物は「わかる」ところが多いですね。多いけれども、ただ私はそこまでプライドが高くないです(笑)。プライドが高くて傷つけられてしまうという気持ちはわかる、わかるんですけれども……。

私だったらそこまで光源氏に縋るかなぁ。どこかで気持ちを切り替えてしまうと思います。御息所自身も切り替えようとして伊勢に行ったのでしょうけれどもね。自分に何があっても、死んでしまっても、一瞬でも源氏にまつわる何かワードや現象があれば、それがきっかけとなって一気にガバッと心が戻っちゃう。そんな人の存在は凄く辛いでしょうけれど。彼女自身は「輪廻から逃れたい」「火宅の門から出たい」と言っていても、実は出たくないんじゃないかなと感じます。ぐるぐる廻ることで安定しているような。

それは不安定ですけれども、常に動いてまた戻ってきてしまうことで安定してしまっているのかな。それが凄くて。自分ならどうかと考えた時に、死んでまで誰かのことを想うなんてことは、どうかな、死んでまで戻ってくるかなぁ(笑)。

執着というよりも、自分の感情の手の届く範囲ではないところで動かされているような。彼女の性格上の問題なのかな。常にクルッと出てくるかと思うと、いつの間にかいなくなってしまったり。自分で操作してやろうとする行動ではないでしょう。

そういう御息所のパーソナリティといいますか、根っこの部分をうまくとらまえていきたいですね。彼女の中にはとてもしっかりしたものはあるとは思います。回転しながら安定しているものが。そこを共有していくことができたらいいなと思うのですが、なかなか難しい。

本番に向けてお稽古を重ねていて、いや本当に辛いなと。しんどい。何度も途中で「今日はやめようかな」と思うことも。六条御息所の心情を考えて云々というわけではなく、ただ辛いですね。正直苦しいんですけれども、苦しんでいると何か心情的に内側に引っ張られちゃうような感じがして。よくないような気がするんですが、何と言っていいのかわからないですが。しんどいけど、そこをなんとか乗り越えてやるしかない。乗り越えたいです。



■事前講座を通して迷いや漠然とした思いをクリアに
今回の事前講座も、金子(直樹)先生と一緒させていただきました。対談形式で進めましたが、ふたりで意見をすり合わせる必要はないですし、私は話していくうちに自分の中でまとまっていなかったものが次第に整理されていくような感じがするので、講座の内容もそう展開できればいいかなと考えていました。

前回の『井筒』での事前講座の時もでしたが、私ひとりが延々と話すのではなく、また結論をすり合わせてから講座に臨むのではなく、ふたりで実際に話しながら意見や見解を聞く。それに自分が同意できるかできないか、異なる考え方をキャッチボールのようにやりとりすることによって、自分の考えもきちんと言語化されていなかったものが言葉になっていく。それが大事ですね。自分の理解がハッキリしたことになりますし、考えが具現化したということになります。今回もそういう体験がありましたから、ひとと話すことは大事ですし、お客様の反応を見ながら「みんなはそう思わないのかな?」なんて感じたり……。

自分のいま感じていることを言葉にして整理する、抽象的な思いも必要ですが、ぼんやりと理解できていたものがハッキリさせる、そうできれば良いと思ってこういう講座の形式になりました。参加者の皆さんはどう思われたかはわかりませんが(笑)。

話すことで手の内を見せるということでもないですし、感じ方・受け方は皆さんが決めることです。ただ、もし(舞台をご覧になる)皆さんが迷っているのであれば提示するという形です。私自身がまだ迷っているんですという姿をお見せしたのは恥ずかしいのですが。みんなも一緒に迷ってね、みたいな(笑)。なんだかダメですね(笑)。

■本番を経験し尽くしたい
稽古中も不確定なところがありました。『野宮』はそういう曲なのでしょうけれど。本番までさらに稽古を重ねて、当日は装束をつけて、その時に初めて成るものはあるのではないかと。今までできなかったことができるようになるために、引き出しをつくるための稽古でもあるかな。やはり当日しかできないこと、当日でもできなかったこと、その時にならないとわからないことは多いと思います。本番というものをしっかりと経験し尽くしたいですね。

実際舞台をつとめてみて、最初は下歌、上歌が辛くて。でも自分で「大丈夫、このためにお稽古を重ねてきたんだ」と言い聞かせました。お稽古中はキッパリとやったほうが良いというご指導があり、気を付けていました。ダラダラしがちで、ものを言いすぎるのを離してみる、といいますか。

結局、舞台を終えてすぐの段階では、どうだったのかまだわからないです。少なくとも皆様がグーッと観てくれたので集中が途切れずにいられました。この「グーッ」に助けられましたので、今後もどうぞお見捨てなく(笑)。
今回、面(おもて)は観世銕之丞家から拝借し洞水(とうすい)の「増」(増女)でした。後シテの長絹は銕仙会からで、それ以外は鵜澤家所有のものです。