2023年1月13日(金)
『渋谷能』第三夜 金剛流

約650年の歴史を持つ芸能“能楽”の未来を担う若手能楽師が集まる「渋谷能」。今年度のテーマは日本のもっとも有名な古典文学であり、様々な文化、芸能に影響を与えた作品『源氏物語』です。金春流・観世流・金剛流それぞれの公演とシテ方五流儀と大蔵流狂言が揃う千秋楽の全四夜を開催しました。


2022年12月22日(木)|事前講座

第三夜『落葉』の事前講座では、公演のシテをつとめられる宇髙竜成師が講師として興味深いお話をしてくださいました。
前回ご出演された際のアフタートークでは「自分が(シテを)つとめるには、何か大きな変化がないとムリ」と仰ったことを振り返りつつ、「一応、(今は)変化したつもり。しかし不安でいっぱい」と心情を明かしました。

『落葉』は京都を拠点とする金剛流のみの曲目です。流儀のなかでも上演回数が少なく、これまで東京では3~5回ほどの公演だったそう。『落葉』のシテをというお話が決まったときに、宇髙師は無理だろうと思いながらもご宗家に相談したところ、あっさりと「いいよ」とお許しを得たそうです。先代のご宗家がおやりになるまでは、上演記録が無かったとのことで、この「渋谷能」でその舞台を観られるのは貴重な体験となるでしょう。

『落葉』は朱雀帝の女二の宮である落葉の宮をシテとする、いわゆる三番目物(女性をシテとする作品)の曲目です。この講座の前日に41歳のお誕生日を迎えられたという宇髙師は、『落葉』を舞うことが難しいとしながらも「今、(自分は)若手と中堅の間の世代。如何にエネルギーを出していくか」、不完全な存在である人間、その人間らしさを追求していくという課題を述べられました。
シテは落葉の宮の幽霊です。幽霊とは人生を終えた人、さまざまな経験をした人。そしてやりたかったこと、やりたくなかったこと……複雑な想いに囚われる女性として舞台に立つのが三番目の難しいところとのことです。

落葉の宮とよばれたのは、妹であり源氏の妻となった女三の宮に恋した夫・柏木の歌に、落葉のように面白味のない人だと詠まれたことからだと言われています。「言葉とは呪いに近いもの」と宇髙師。妹宮と比べられ、夫から残酷な言葉を投げつけられた衝撃や深く沈んだ想いはやがて執心となっていきます。『落葉』はその執心を晴らす能であり、誰をも成仏させるという法華経の力で救われるという有難さを説くお話でもあります。

続いて物語の解説。『源氏物語』は私たちから見るとフィクションの世界ですが、この曲目の中ではまるでパラレルワールドのように歴史上の出来事としてとらえられています。
北陸から大原の小野の里を訪れた僧(ワキ)がこのあたりの旧跡を訪ねようとすると、里の女性が声を掛けてきます。僧は浮舟の君(こちらも『源氏物語』の登場人物)の旧跡について尋ねるのですが、その女性には何か言いたいことがあるようです。ここは落葉の宮に縁のある場所でもあるようで、その旧跡まで連れていきます。

落葉の宮の旧跡と言われても、跡形もなくよくわかりません。僧は別のいろいろな旧跡についても尋ね、里の女がそれに答える「名所教え」という場面があります。舞台上での方位をどこに定めるかは流儀によって異なりますが、金剛流では笛柱を北、揚幕を西方浄土とします。
舞台で惟喬親王の墓は北だと案内する場面があり、笛柱方向を指すということになります。ちなみに、惟喬親王は文徳天皇の皇子で、『伊勢物語』にも登場します。紫式部は『伊勢物語』を読み、小野の里に「聖地」を感じたのではないかというのが宇髙師の見解です。

僧に請われるまま名所を案内した女性でしたが、心から知ってほしかったことがあったのでしょう。炭焼き小屋の煙を指し「私の胸の煙でもありますよ」と伝え、自分こそが落葉の宮であると名乗り姿を消します。胸の煙というのは、夫である柏木に、落葉のような人と言われたことが燻っているのでしょう。言われた方がかなりきついと思う、と宇髙師は述べられました。

中入りに登場するアイはおそらくこの辺りの木こりでしょう。落葉の宮の旧跡の話を僧と深めていくうちに、では弔いましょうということになります。

後半では、執心が落葉のように積もり積もった落葉の宮の幽霊がシテとして登場します。詞章にある「落葉の積もる罪咎を……」というのは、自身の執心を晴らしたいということです。
実は、この曲目の中で落葉の宮の幽霊は、夫である柏木の事を少ししか触れていません。人の真の姿は外からはわかないですし、舞への見方に正解はない、身体のリズムと移り変わりを観ていただければ、と宇髙氏。「落葉のように舞いたい、一枚、また一枚と」、後場で観られる序の舞、破の舞は夕霧の執心を払う舞なのでしょう。


▲面を披露する宇髙師

物語の解説の後は「お見せしたいものがありまして」と面(能面)をお持ちになりました。
「小面」「宝来女」「孫次郎」のうち、本番でどの面をお使いになるかは未定とのことです。装束も含め、ご宗家が何を出されるか、その時までわからないとのこと。面=顔が変われば謡い方も変わってくるとのことで、能とは、細かいところまで心を遣るような実に繊細なものであるとあらためて感じられます。「『小面』は可愛らしいイメージで『孫次郎』は美人さんという感じ。お化粧の仕方によってメンタルの状態が異なるのと似ているかもしれませんね」。と宇髙師。
『落葉』はそのどちらでもよく、当日は何が出てくるかお楽しみにとのことです。ご自身で想定していた面と違ったものが出てきたら謡い方も変えるつもりだそうです。

最後は宇髙師による舞のご披露。「能楽師が喋って帰るだけだと……」と、まだ完成していない『落葉』を見せても野暮⁉だということで、『遊行柳』のクセの一部を舞われました。遊行上人や物語についての簡単な説明に続き、ご自身で謡いながら舞うという、講座ならではの面白いスタイルです。

最後に参加者との活発な質疑応答を経て、宇髙師の「理想は高いけれど、その理想にどこまで近づけるか準備していきたい」というコメントで講座は締めくくりとなりました。
※講師:宇髙竜成師(シテ方金剛流)
※会場:セルリアンタワー能楽堂

事前講座の動画はこちら

2023年1月13日(金)|第三夜 金剛流『落葉』

能楽評論家の金子直樹先生の解説の後、金剛流の『落葉』公演が始まりました。

侘しさや胸の痛みが感じられるような、そんな笛の音に続いて大小の鼓の音が加わりました。次第に晩秋の気配が漂う空気となっていきます。今回の囃子は笛、小鼓、大鼓の構成で、太鼓はありません。地謡が着座して間があってから強い笛の音、大小の鼓と続くと、物語の世界に引き込まれました。

なめらかに変化した笛の音と鼓に聞き入っているうちに、旅の僧(ワキ)が現れました。

山城国の小野の里にたどり着いた旅の僧は、あたりを見て回ろうとします。この物語では、『源氏物語』は創作上の話ではなく、歴史上の出来事とされています。さて、この僧は『源氏物語』に登場する浮舟に思いを馳せ、縁の地で回向しようとしています。

揚幕が上がり、その奥から声がします。やがて姿を現したのは小野の里に住むという女性(前シテ)。彼女が言うには、ここには落葉の宮の旧跡もあるとのこと。何かさらにもの言いたげな、それでいて奥ゆかしく躊躇しているようにも見えます。このやりとりを地謡が承け、シテとワキの謡も入りながら物語が描かれます。僧は落葉の宮の事も知っているが、折角のことなのでさまざまに旧跡を訪れたいようです。里の女は僧の要望を慮り、近くの旧跡を案内します。僧の問う惟喬親王の謂われについても、縁者である在原業平が訪れて「忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏み分けて 君を見んとは」と詠んだエピソードにも触れ語ります。

この間シテはワキを案内するために舞台上で大きな動きを見せるわけではありません。主にワキとの言葉のやりとり、また地謡が承けての状況説明です。お囃子もなにやら静かに時を刻んでいくような――。

女性は、僧とのやりとりに少し感情の揺れも滲ませながら、最後にわれこそが落葉の宮であると名乗り、逡巡するような素振りを見せながら消えていきます。

中入りでは、小野の里の者と名乗る男が登場(アイ)。薪を集めに来たところで僧と出くわします。僧が小野の里と落葉の宮の謂われを問うと、なにやら意外だというそぶりを見せつつ、請われるまま語ります。後に落葉の宮と呼ばれた女二の宮は朱雀院の娘たちのひとりであり、柏木衛門督(えもんのかみ)と結婚、その妹の女三の宮は光源氏と結婚します。ある時、女三の宮の猫が御簾の外に出てしまった際、それを追う彼女の姿を見てしまった柏木が心を奪われてしまったという『源氏物語』にも描かれるエピソードです。

男の話は続きます。柏木が妻である女二の宮とその妹・女三の宮を比べ「もろかづら 落葉を何に 拾ひけむ 名は睦ましき かざしなれども」と詠んだことで、女二の宮はそれ以来落葉の宮と呼ばれるようになった逸話や、そして柏木の亡きあと落葉の宮が母と小野の里に住むようになり、すなわちここが落葉の宮の旧跡であるとも……。

やはり落葉の宮の旧跡を案内してくれた女性は、落葉の宮その人の霊であったのかと、僧はしばらくこの地で過ごし弔うことにします。


▲能「落葉」宇髙竜成(撮影:石田裕)

舞台の後半(後場)、僧が落葉の宮を弔っていると、しばらくの間を置いて、笛と大小の鼓の音に誘われるように後シテが登場します。落葉の宮の幽霊です。僧が落葉の宮かと尋ねると、執心捨てがたい辛さを訴えます。落葉が積もるように重なった罪咎を祓ってほしいという切なる思いを地謡が承け、物語は終盤に向けて進みます。

落葉の宮は、女三の宮と枝が連なる=帝である父を同じくする姉妹である女二の宮のこと。落葉の宮の夫は、落葉の宮を妻としながらも女三の宮に恋焦がれる柏木。彼が読んだ「もろかづら」の歌を引きながら、落葉の宮が母とともにこの小野の里に過ごすことになったこと、母が物の怪に悩み病に伏したことも語られます。さぞ寂しい暮らしをしているのだろうと、柏木の友であり光源氏の息子でもある夕霧の大将が小野の里へ通う話にも触れます。

地謡・囃子に合わせてのゆったりとしたシテの舞。物寂しく侘しい、身に染みる風を感じるような、落葉と言われながらも隠せない淑やかさと気品が漂う序の舞です。本意ではなかったとはいえ、後に結ばれた夕霧をどう想うのか。佇まい、踏み出す足の運び。観ている側としては、落葉の宮に心情を尋ねてみたい気持ちになります。

落葉の宮への夕霧の強い想いは、かつて落葉の宮の夫である柏木が女三の宮へ寄せた妄執に近い情念のようなものでしょうか。ただただ涙するしかなかった落葉の宮。続いてのシテの破の舞は、そんな人の念に巻き込まれ翻弄された様が垣間見えてくるようです。

しばらくして、僧の供養を受けたことで、重い情念や罪咎はまさに落葉のようにはらはらと、思いに揺れ動きながらも身から剥がれて行ったのでしょうか。長年抱えていた心の中の重荷を下ろせたのか、囃子にも少し明るさが感じられるようです。

 執心から解き放たれる落葉の宮。いつの間にか姿は消え、里には山風だけが残りました。深い秋の冷たく清浄な空気感と、去っていった落葉の宮の残り香のような情感が漂う余韻につつまれ魅了された舞台でした。

公演後は恒例のアフタートーク。おなじみの友枝雄人師(シテ方喜多流)、成田達志師(小鼓方幸流)のお二方のお話に、途中から舞台を終えたばかりの宇髙師が加わり、あらためて『落葉』とはどういうお能なのか、舞台で実際に使われた面や装束についてなど、興味深いお話が語られました。

 出演者スペシャルインタビュー|シテ方・宇髙竜成師

■力を抑えるとダメ、抜けちゃってもダメ
「渋谷能」で『落葉』を舞うにあたって宗家にお伺いを立てた時に、正直「アレッ!?」と思いました(笑)。(宗家は)「どうぞ」と一言おっしゃっただけです。ただ、宗家がどうぞと仰るときは「いいけれど、ちゃんとやれよ」っていう意味なのだと。なので、自信はないけれども、もちろんキッチリやるつもりでいきました。

先輩方が舞われているところは、観たことないですねえ。豊嶋彌左衛門(金剛流シテ方)先生とか、確か60代でされていると思うんですよね。種田(道一師。金剛流シテ方)先生も10年くらい前、50代でされていますね。

技術的な話をしていいですか。舞台では、力を抑えるとダメなんですよ。抜けちゃってもダメなんです。だから力を出しつつ抑えなければならないけれども、あんまり抑えがききすぎると執心ものになってしまって暗くなっちゃう。それでその調整を失敗して力がクワーッと出ると、明るく華やかになっちゃうのです。

もうひとつ課題がありました。「どうやったら落葉の宮のようになるんだろう」っていうところの模索ですね。別に自分の技術を見せたいというわけではないので、とにかく観てくださる方々に落葉の宮を見せたいということだけです。

■言うべきことは言う、落葉の宮
落葉の宮についてちょっと前まで思っていたのは、とても理性的な、身分が高くてプライドも高い。「自分の意志で動けない立場の人」なんですよね。でも最近思うのは、前提が違っていたんじゃないかと。ただ柏木の好みじゃなかっただけであって、とても魅力的な女性なんじゃないかと思うようにもなってきたんですよ。

落葉の宮についてはどちらかなんです。地味な女性が現れてずっと自分の話をするか、実はめちゃめちゃ華やかな人で――でも柏木には愛されなかった人であったか。どうしようかなぁと。

この落葉の宮は押しに弱いですよね。ワキがもうちょっと落葉の宮のことを聞いてくれるのかな、喋れるんじゃないかと思っていたら、ここに惟喬親王の、あ、はいじゃあ北に、在原業平が「忘れては 夢かとぞ思ふ~」と詠んだ場所でとなって。ただ見て通るんじゃないよって言っているのは、心の奥では「私はさっき見せた旧跡の落葉の宮だぞ」って思っているわけです。それに対してワキが「これより東の……」って言うからコノヤロウなんて思っちゃうんですよね(笑)。ただ、その後ワキを奥に連れていって炭竃の煙を見せた後で「落葉の宮はわれなり」と名乗れた。最後は「言う」人ですね。

落葉の宮はお話が上手な人ではないかもしれないですね。例えば『野宮』『井筒』では、「そういうあなたは一体誰なんですか」と向こう(ワキ)に言わせるんですよ。そのうえで私は、と名乗れるわけです。『落葉』はそれとは違う感じですよね。わかってもらって弔ってもらっていたら、言えることは言える。やると決めたことはやる人だと思います。ただ、生前はたぶんそういうことも出来なかったでしょうね。本当はいろんなことをしたかった人かなと。

ただただフンワリと生きてきた人であれば執心も何もないはずですよね。『玉鬘』みたいに「げに妄執の雲霧の」、雲や霧のようにフワッとぼんやりしたものではなくって「落葉と夕霧」とハッキリしています。ただそのイメージをどう夢幻化するのかって……。本当に何も語らずに、ああ、こんな感じなのかと観てもらえるのが理想かな。

■どのように舞うかは本番当日の感覚で
事前講座では、本番では三つの選択を考えながら、当日のインスピレーションでどのように謡い舞うかを決めていこうと話しました。申し合わせが終わった時に笛の調子だとか、ワキの謡い方の感じによっても変わってきます。「これで完成ではなく、通過点で、いったん渋谷能での本番が締め切り」と僕は思っていました。そこが鑑賞に耐えうるかどうかが課題でしたね。恐ろしくってしょうがない(笑)!

本番に近づくまでに解釈がどんどん変わってして、『源氏物語』も読もうと思ったんですが間に合わなくて(笑)。実は、三番目物の経験があまりなくて『羽衣』『吉野静』、そしてこの『落葉』なんです。さらっといなくなる役で、実際に本番を終えてみると、今までやってきた激しい動きの曲よりきつかったという印象です。「もう一回やるならこうやるかな」なんて思うかもしれませんが、次に舞うかどうかはまだ考えていませんね。

■入り込むにはまず「形」から
 去年の暮れに惟喬親王のお墓にお参りに行ったんです。それもあって、間狂言で木こりの話が出たと思うんですが、お墓参りの時に木を切る音が聞こえて「ああ、今もあるんだなあ」と。僕は形から入るタイプなんですよ。ただ、肝心なところを後回しにするんです。だからどんどん外回りから攻めていって。今回もそうですけれども、お稽古をほったらかしにして『伊勢物語』を読んだり、まだ謡も覚えきらないうちに惟喬親王の旧跡に行ったりとか、まず形から。基本現実逃避からです(笑)



■観たい人が観られるように
新型コロナウイルス感染症の拡大以降、世の中が変わったと思うんです。今までお能を観なかった人が観るようになった、ただし今までお能を観ていた人が観なくなったということも感じています。フェーズが変わった感じがして、それをちゃんと読み切らないと危ないぞと思っています。
例えば配信公演は大変ですが、アーカイブは今のシステムでもできるんですよ。何かの記事にアーカイブの二次元コードがあれば「これ面白そうだなあ」と思ってくださった方が観てくれるんじゃないかなと。もっとオープンにして観てもらう人をどんどん増やさないと。能楽堂って外から見たら何やっているかわからないところで、とてもニッチなジャンル。幽霊が出てきて執心を晴らすって曲を観たいという人達を僕たちは素敵だと思いながらやっています。でも、あまりアプローチ出来ていない気がするんです。もっとできるのに……と少しはがゆい思いもあります。それこそチケットが取れなかったらさっき言ったアーカイブとかね。観たい方がチケットを取れるようにしたいですね。観られなかったらそれでお終いですってのいうのは、出る側としても申し訳ないので。
それと同時に、啓蒙活動はいま本当にしていくべきだと思っています。ただ催しが多すぎると舞台のクオリティが落ちるので、もっと稽古したいです。お能は歌舞伎のように連日同じ曲目での公演が続くということは原則なくて、でもそれはいいことだと思っていて。興行としては非常に弱いですが、だからこそお能の良さをお伝えしたいですね。