2022年2月4日(金)
『渋谷能』第三夜 観世流・喜多流 異流共演

能楽の未来を担う若手能楽師が流儀の垣根を越えて集まり、現代と伝統の世界を結ぶ注目のプロジェクト「渋谷能」は今年で3年目を迎えました。喜多流・宝生流・観世流それぞれの公演とシテ方五流儀と和泉流狂言が揃う千秋楽の全四夜を開催します。
今回お届けするレポートは、異流競演が注目の第三夜。一人の男を争う二人の女の妄執を美しく描く能「三山」を深堀します。

2022年1月18日(火)|事前講座

「渋谷能」第三夜は異流競演で能『三山』を開催するということで、事前講座の参加者も多く大盛況でした。
講座にご登場いただいたのは、シテをつとめるシテ方観世流・片山九郎衛門師とツレとして出演するシテ方喜多流・友枝雄人師、そして司会進行として小鼓方幸流の成田達志師のお三方です。まずはそれぞれの自己紹介の後、成田師がシテ方のお二人にお尋ねるという形で進みました。

初めに物語の紹介から。僧・良忍上人(ワキ)の一行が大和三山(香具山・畝傍山・耳成山)を見物しようと大和国(現在の奈良県)を訪れます。耳成山に向かったところで出会ったひとりの女性(前シテ)が語ったのは、三山にまつわる、いにしえの苦く辛い恋の話。

それは、かつて香久山に住む膳手公成という男が、耳成山の桂子と畝傍山の桜子のふたりの女性の元へと通っていたが、そのうちに桂子は男に見捨てられてしまい、恋に破れた桂子は池に身を投げた――という悲しい言い伝えでした。また、その桂子こそが自分である、とも。

物語の後半では、桜子(ツレ)の霊が登場し、桂子(後シテ)の深い恨みを解いてほしいと良忍に訴えるのですが、そこへ桂子の霊も現れ、恋をめぐる激しい争いの様が再現されます。しかし、良忍の弔いでふたりの霊は救われていきます。

いわゆる男女の三角関係を描いた曲といわれていますが、古代、神代の話として人が争う話でありながら、大和の三山、三つの情景が見えてくると片山師。古代のロマンの雰囲気も感じられます。

『渋谷能』は30-40代の若手から中堅に差し掛かる年代の能楽師が中心となる公演ですが、今回は50代の中堅層による舞台。また、観世流の公演でありながら、ツレを喜多流の友枝師がつとめるという異流競演も『渋谷能』では初めての試みです。

テーマである「雪月花」の「花」で『三山』。同世代の片山師を常にリスペクトしているという友枝師による熱いリクエストで実現したそうです。宝生・金剛流にもある曲ですが、喜多流には無い曲目です。観世流では1985(昭和60)年に復曲したということもあり、この曲目で是非やりたかったという想いも語ってくださいました。

『三山』を小鼓方として何度もつとめている成田師には、宝生流、金剛流に比べて観世流では大曲のような印象があるようです。復曲に尽力したのは、八世観世銕之亟(静夫)師。かつてツレをつとめた片山師によると、復曲の際の構成に「先生(八世銕之亟師)の性格が如実に表れていて、謡も先生の声に適したもの」ということで、「まさか、それ(シテ)をやるとは」。八世銕之亟師との思い出話も交えながらもシテとして立つ際の難しさを話す片山師に、「ハードルが高くなってきたな」と友枝師。

異流競演の難しさや面白さにますます興味がわいてきます。片山師が重きを置くのは「ゼロからスタートし、お互いの息を合わせていく。心の匂いや目に見えない形が能の面白さ、それを新しく出していくことの大切さ」、そして友枝師は「喜多流には無い『三山』で、(観世流の)謡本の節の見方がわからなくて新鮮。豊かな曲だと感じつつ、大和三山を扱う曲で女性の争いにこだわるのではなく、古代の日本の心の豊かさや万葉の世界を曲の終わりにお伝えしたい」と思いを語りました。

講座の後半では、公演当日に使用される面(おもて)について紹介と解説。
前シテでは「増(女)」を使われるとのこと。赤い頬紅をさしたようなお顔が印象的です。「古元休(こげんきゅう)と呼んでいるけれども近江(おうみ)かも」と片山師。後シテで使うのは「増髪(ますかみ、十寸髪とも)」。無銘だそうですが、出目満茂(でめみつしげ)のものかもしれないとのことです。

▲面を披露する片山九郎衛門師(中央)、友枝雄人師(一番左)、成田達志師(一番右)

ツレで使われるのは桃山期の是閑(ぜかん)作「万媚(まんび)」。こちらは若く艶めかしい雰囲気が伝わってくるようです。

ちなみに、今回の公演のチラシは友枝家の面が使用されたということ。お持ちの方はどうぞじっくりとご覧ください。

装束については、前シテで「イロ(紅)」の有り/無しで悩んでいるとのことで、後シテは鬱金か茶色、茶の濃い色の予定だとか。ツレも金地の桜か、赤を入れたものかで悩んでいるそうです。いずれにしても、公演当日のお楽しみですね。

異流競演で開催する『三山』について、さまざまなエピソードを交えながら存分に語ってくださいました。曲目への知識を深める以上の濃い内容を堪能できた講座でした。

※講師:片山九郎衛門(シテ方観世流)、友枝雄人(シテ方喜多流)、成田達志(小鼓方幸流)
※会場:セルリアンタワー能楽堂

事前講座の動画はこちら


2022年2月3日(金)|第三夜 観世流・喜多流 異流競演『三山』

能楽評論家の金子直樹先生と女優の石田ひかりさんによる解説から始まりました。
今シーズンのテーマ「雪月花」のうち、今回は「花」を取り上げた曲目です。観たことがないので予習してきたという石田さん。『三山』は事前講座でも紹介のあったとおり、観世流では近年復曲されたものです。

万葉集で描かれる大和三山のうち香具山は男性、そして畝傍山と耳成山が女性といわれ、三つの山の争いの伝説から採った物語です。金子先生によると、万葉集を題材にした能の曲目はあまりないとのこと。復曲といっても単に昔あった曲を復元するのではなく、曲目として演出や展開に新しい命を与えられたところが大きな見どころでしょう。

観世流で復曲させたのが八世観世銕之亟(静夫)師。今回のシテ(桂子)をつとめる片山九郎衛門師が師事し、また現在の銕之丞(九世)が地頭、そして異流競演ということでツレ(桜子)には喜多流の友枝雄人師。お能をよくご覧になっている方々にはとても楽しみだったことでしょう。

舞台の始まりは揚幕の向こうから聞こえる囃子のお調べから。しっとりとした憂いをも感じさせるような笛の音に、鼓の音も聞こえてきます。しばらくして地謡、囃子方が舞台に入り、いよいよ物語が始まります。

僧形の人物が現れました。良忍上人(ワキ)の一行です。ワキとワキツレの謡で、彼らが大原を出て大和路にいることがわかります。大和国に着き、名所である三山について所の者(アイ)に尋ねると、三山とはひとつの山の名前ではなく、北の耳成山、南の天の香久山、そして西の畝傍山が三山であるとの答えが返ってきました。ではその山々を眺めようというところで、気配なく現れたのがひとりの女性(前シテ)。シテは橋掛かりに佇んだまま語ります。それは三山について詳しく知る人はいないだろうと、万葉集に描かれた三山、そして耳成の池に沈んだ人の物語。ワキに促されてシテは本舞台にうつりました。

シテとワキのやりとりの間、シテの語りからは気持ちの昂ぶりが伝わってくるようでした。シテは舞台の上を静かにゆっくりと歩みます。抑えられない感情が身体を所在なく動かしているような……。謡を地謡が承けて話は続きます。香具山の男が耳成に住む優れた桂子と畝傍に住む若く美しい桜子というふたりの女の元へ通っていました。ひとりの男を巡るふたりの女の争いは、男に捨てられた桂子が桜子を恨みながら池に身を投げ命を落とすという結末を迎えたのでした。

シテは桂子が身を投げる様を再現するかのように腰を落とします。女の正体は桂子の霊であったとわかります。やや静寂の間があってから聞こえるのが冴えわたる笛の音。その後シテは退場します。

良忍の元へ再び所の者がやってきました。あらためて三山についての謂われや、神代の昔には山川草木の自然にもそれぞれ心があり、妻問いや妻争いがあったことを語ります。高砂・住吉のような松の夫婦、また桂と桜が柏を争う話――。彼の求めもあり、良忍たちは桂子の霊を弔うことにしました。

アイは切戸口から退場。場面は後場へと移ります。弔いをしているうちに今度は別の女性(ツレ)が現れました。手には桜の木を持っています。自分は桜子だと名乗り、恋の恨みを買った苦しみを解いてほしいと訴えます。ツレが本舞台へ移ると、そこへ後を追うように橋掛かりに現れたのが右手に桂の木を持った女性。前場で三山のいわれと儚く辛い恋の最期を語った桂子の霊(後シテ)でした。

シテ・ツレの姿に目を引かれます。桜子はまっすぐな美しい髪で若く魅力的なさま、桂子の髪は少し乱れていて、疲れたような感じです。また装束にもふたりの対比が見られます。紅入りの鮮やかな装束を身に着けている桜子と、落ち着いた暗めの装いの桂子。ただし地味というわけではなく、かつての「優女」を思わせるような重厚さがあります。シテ・ツレともに唐織の右肩は脱下(ぬぎさげ)の状態で、恋に乱れた様子を表しています。

お囃子に合わせ、後シテは足早に本舞台へ。桜子に対する怒りや妬みがシテの足拍子から感じられます。ついにふたりはそれぞれに持っている桂木と桜木で相手を打って争い始めました。とても激しい場面ではありますが、恋敵同士の猛烈な争いというよりも花が艶やかに舞い競っているかのよう。醜さは感じられません。


▲能「三山」片山九郎衛門(左)、友枝雄人(右) (撮影:辻井清一郎)

打ち負かされた桜子は涙し、また桂子はその後ろから彼女の方に手を掛けます。良忍たちの弔いが通じたのでしょうか。恨みも晴れ、長かった迷いの時も明けたようです。救われた桂子と桜子は静かに消えていきました。

シテ・ツレの退場後もしばらく見所まで万葉の空気感が漂っていたようでした。

舞台終了後はアフタートーク。成田達志師による司会進行で片山九郎右衛門師・友枝雄人師に公演直後の感想などを語っていただき、熱い話が展開されました。

 出演者スペシャルインタビュー|シテ方・片山九郎右衛門

■師匠が復曲させた『三山』
シテとしての重圧と異流競演への期待感
『三山』を「渋谷能」でやるにあたり、家元(観世清和師)にお伺いを立てたら「やってもいい」ということでしたので、させていただくことになりました。喜多流との異流競演ですが、お地謡(のシテ方)は観世流にしていただかないとちょっとまとまらないんじゃないかという(観世)銕之丞先生のご意見も入れて……。いざやるとなってから「大変なことになった」という認識でした(笑)。

実は『三山』のシテをつとめるのは二度目です。15、6年くらい前でしょうか。京都観世会の演能委員会からやってほしいと言われて。あまりにもうちの先生(復曲した八世銕之亟師)の想いが強い曲目なのでどうかと思ったのですが、私に選択肢はなくて(笑)。(八世銕之亟師の謡う)「男うつろふ花心……耳成の里へハ来ざりけり」の部分ね、ここは強いだけじゃなくって、寂しい声音なんですよね。まだ耳に残っています。

実際初めてシテをやってみて、先生のハッキリしたダメ出しがあればわかることもあるんでしょうけれど……。先生が観ていたらどうだっただろうなと。亡くなった今でもそれは思います。
うちの先生のやり方は怒りとか悲しみとか淋しさとか、やるせなさとか、諦めとか……そういうのが一緒に出せる。「なんでなんだろうなぁ」と思うんですけれど、自分の身体に備わっていない回路を使ってやるということは無理なので、自分の身体をオリジナルに使って試さないといけないんだろうなと。「あれをどうやったら真似られるか」と。初めての時よりも今度はという欲は出てきています。

おふたり(成田達志師、友枝雄人師)に「渋谷能」の舞台に呼んでいただいたことを誇りに思っています。今度は二度目の『三山』のシテだからと心構えが変わったことはなくて、その都度新鮮に慌てています(笑)。異流競演ということで(友枝)雄人さんとやるのは本当にワクワクします。役者として一緒にやろうと選んでくれたことが本当に嬉しいなと。「あれを試したい」「あの人と一緒にやってみたい」、そうしたらどうなるのかなということは雄人さんと同様、私も常に考えていますよ。

■「成仏」ではなく、安らぎと自信を得て
アイデンティティを取り戻せたか
桂子は最後、成仏できるとは私は思っていないです。だって、こんなに長いこと苦しんできているのに。良忍上人には大変失礼ですけれども、一度祈ってもらっただけで、そんなにうまくいかないんじゃないでしょうか。いったんは気がれるかもしれない。その時に自分の価値観というものを取り戻せるのだと。

最後に描かれる景色が私は好きなんですけれども、ある安らぎ、ある自信を持ってうまく消えていくということが、この曲の肝なんだろうなと。「朝日照り添ふ飛鳥の里の」のところ、最後はまぎれながらスーッと消えていくその背中、桂子・桜子のふたりともに、男に何を言われようと自分自身のアイデンティティというものを持って真っすぐ向いてゆけるような。良忍上人にはちょっと反省してもらったほうがいいかな(笑)。あなたのお陰で成仏したのではなくて、ふたりは吐き出すものを吐き出せたから自分を取り戻せたんだと。

今までのような男目線で「救ってやる」ということではないなと思って情景を眺めてみる、そういう視線のつくりがあってもいいのではないかと思います。


出演者スペシャルインタビュー|シテ方・友枝雄人

■常に自問自答することで進化は止まらない
片山師の舞台人としての在り方を見習いたい
(片山師とは)ワークショップ等で何度か一緒になったことはありますが、能楽公演としての異流競演は初めてです。先代の(八世)銕之亟先生に付かれていて、しっかり叩き込まれている芸というもの、ブレない基礎、その中でご自分の能楽師としての理想を追い求めているところに、表現者として劣化どころかどんどん進化しているところ。常日頃自問自答しているからだと思います。そういう姿を舞台人として見習わなければならないと思いますね。舞台の結果に表れていますからね。

片山さんが先ほど仰っていた「先代だったらどう言うだろう」は、完全に自問自答の言葉ですよね。僕の場合は伯父(師事している友枝昭世師)がまだ存命ですから、まだまだいろいろと言われますけれど。僕自身も自分なりに考えたりしながら、同じ方向を見て歩みたいなと思っていますね。

■異流競演は「渋谷能」では初めての試み
流儀の異なる立ち合いにふさわしい曲を
もとから「渋谷能」で異流競演をやろうというプランはありました。その後『三山』に決まったわけですが、2021年度のテーマ「雪月花」の「花」にどの曲目を選ぼうかと考えた時に、花の曲かつ異流競演として成立するものを探さなければいけなかったのです。シテとツレがある意味同列になるような曲目じゃないと。ツレが単なる従者として出てきても異流競演にはならないわけですね。僕自身は、喜多流には無い曲をということで選んだつもりはなくて。『三山』は宝生流、金剛流にある曲で観世流でも復曲しているし、なおかつ喜多流には無いから、いろんな意味で競演として新鮮さを追求するうえで、条件がそろっているんじゃないかなと思いました。面白いんじゃないかと。

『三山』の観世流謡本を見た時には、「ここはこういう謡い方をするかな」と検討をつけたり、節の見方を成田(達志)君に聞いたりしました。そして「ああ、これは喜多流のこの息遣いと一緒だね」と段々わかってきました。
喜多流の私が謡い方を観世流に寄せてしまっては、異流競演の意味がありません。むしろそのなかで「うちの流儀ならこういう息遣いをするな」と、こちら側に取り込ませてもらう作業は、とても興味深いものでした。