2022年8月3日(水)
『渋谷能』第一夜 金春流

約650年の歴史を持つ芸能“能楽”の未来を担う若手能楽師が集まる『渋谷能』。今年度のテーマは日本のもっとも有名な古典文学であり、様々な文化、芸能に影響を与えた作品「源氏物語」です。金春流・観世流・金剛流それぞれの公演とシテ方五流儀と大蔵流狂言が揃う千秋楽の全四夜を開催しました。



2022年7月27日(水)|事前講座

第一夜は金春流による『夕顔』。「源氏物語」に登場する夕顔は光源氏の恋人のひとりで、能では『半蔀』と今回の『夕顔』に登場します。事前講座では、シテをつとめられる金春流シテ方・中村昌弘師が講師として解説されました。

実は金春流で『夕顔』は長らく上演されていなかった曲目だといいます。また、謡本が宗家に残っていなかったため、分家をはじめいろいろな家にあったストックを集めて再編集していたとのことです。
中村師が舞台でシテをつとめるのは金春流としては復曲されて5回目の上演だそうです。

参加者に配られた詞章のプリントを元に、中村師による曲目の解説がありました。豊後の国の僧(ワキ)が京の五条に訪れるところから話は始まります。ちなみに、豊後は夕顔の娘にあたる玉鬘に縁のあるところ。女(シテ、実は夕顔の霊として後場に登場)の吟ずる声に立ち止まり、シテとワキの対面から物語が展開していきます。中村師によると、能では幽霊とは自分のことを弔って成仏させてくれる、もしくは理解してくれる人の前に出るものだそう。やりとりの中で女は謡の中で紫式部の名を出してきます。「源氏物語」の登場人物が作者の名を出すのは、物語としてはなにやら不思議な気もしますね。

興味深い解説が進む中、スペシャルゲストとして本田光洋師が舞台にご登場。参加者の拍手で出迎えられました。そのまま本田師・中村師の対談形式で、さらに深い話に突入しました。
夕顔が描かれた曲目には『半蔀』もありますが、こちらは「源氏物語」のエッセンスのみで淡い恋を描くのに対し『夕顔』はそうではない」と本田師。「ワードが暗い、重い謡になりがちだけど重々しすぎても」という中村師に「全体として“儚い”がテーマ。シテは若い女の子。人の死に対する陰翳や不安も描ければ」とのコメントでした。

途中からは非常に専門的な話となり、これから舞台をつとめる中村師が本田師から公開アドバイスを受けるという状況に。シテが登場するとき、第一声でのポイント、セルリアンタワー能楽堂という場(広さやキャパシティ)においての謡い方、仰ぎ見る際の仕草など、舞台に関する深掘り話をお二人の対談から聞かせてもらいました。

続いて、中村師はご持参の二つの面(おもて)を参加者に披露。それをご覧になった本田師は「中村君の好みがわかる(笑)」と仰りながらも、ご自身は室町・桃山美人がお好みだと感想を述べられました。面は持って見ているのと実際に掛けてみるのとは、見え方や表情が異なるとのこと。実際の舞台では何が使われるのかお楽しみにとのことでした。


▲面を披露する中村師とゲストの本田師

さらには装束についてお二人の深い談義は続きます。『夕顔』という曲目で、どんな色合いのどんな組み合わせで舞台に立つか、過去に催された公演にも触れながら語り合っていました。「組み合わせを考えるのは悩みつつも楽しい」と中村師。本田師は組み合わせに関するエピソードから、装束に描かれている植物などにも言及。次から次へと展開する植物話に、参加者も驚きつつ熱心に聞いていました。

『夕顔』はシテの動きがとても少なく、居グセの形で座り続けるのは辛いところがあるとのこと。それでも魅力的で辛いけれども充実感があるのは能の醍醐味であると本田師は仰いました。中村師が「辛いけれども辛いと思わせないように」、そしてシテである夕顔の霊が「うまく成仏できれば」と舞台への想いを話しました。また金春流では、舞台中央から目付柱を見る場合には東を見ているのだそうです。夕顔としての中村師は、僧へ向く時や目付柱へ向くときなど、ほんの間を大事にしたいとのことでした。中村師は「私の舞台で回答を出さないと!」と本番へ向けての大きな意気込みを感じさせてくれました。

※講師:中村昌弘師(シテ方金春流) ・ゲスト:本田光洋師(シテ方金春流)、
※会場:セルリアンタワー能楽堂

事前講座の動画はこちら

2022年8月3日(水)|第一夜 金春流『夕顔』

「渋谷能」ではお馴染みの能楽評論家・金子直樹先生の解説からスタート。今年度は「源氏物語」がシリーズのテーマですが、能では「平家物語」に比べて「源氏物語」を元にした曲目は少なく、五流合わせても11番(番外や新作能も含めて13番)とのこと。また今回の『夕顔』は金春流では400年ぶりに復曲されて以降5回目の公演であるとの案内がありました。

解説の後は舞台本番。まずはお囃子と地謡が舞台に上がりました。透き通るような笛の音に誘われるように、僧の姿をしたワキが従僧(ワキツレ)を連れて舞台に登場。僧は九州・豊後の国の人で、京都の名所を巡っていました。五条の辺りを通ると、東屋から女の声で吟ずる声が聞こえてきます。大小の鼓が場の静かな雰囲気を作り出し、観る者を物語の世界に引き込みます。
揚幕が上がり、現れたのは若い女(前シテ)。故事にまつわる謡、そしてここは紫式部が「何某の院」とだけ記した場所だが、それは昔の話だと謡います。僧がこの場所を尋ねると、女が答えたのはやはり「何某の院」とだけ。シテとワキのやりとりが面白く、僧が「何某というのは仮の言い方であって、何故そのような名にしたのか」とさらに問えば、女は僧を面倒な人だとやや呆れた様子。ややあって女が語るには、ここは紫式部の『源氏物語』には何某としか書いていないが融の大臣(源融。嵯峨天皇の皇子で「河原左大臣」とも)が住んでいた河原院であり、その後光源氏に連れられた夕顔があっけなく命を落とした悲しい場所であるとも。

僧は自分が夕顔の娘である玉鬘に縁がある者だと伝え、弔おうと申し出ました。
シテは舞台中央の後方へ位置を変えて座り謡うと、地謡が承けて謡います。ここでシテは居グセの型をとり、動きません。光源氏が道の途中で見掛けた東屋に咲く夕顔の花、花と歌がもたらした二人の出会いと交わした契り、そして儚い夕顔の死。「夕顔」の巻に描かれた二人の時間は短すぎるものでした。シテは静かに立ち上がってゆっくり向きを変えたり、ワキに少し近づいたりします。散り果ててしまった花は二度と咲くことはない――女がそう言うと、いつの間にか姿は消えていました。
 
シテが揚幕の向こうに消えてからの中入では、五条あたりに住む男としてアイが出てきます。気分転換に東山へ行こうとしたところで僧と遭遇。僧が自身の出身地を明かし夕顔のことを教えてほしいと伝えると、男は驚きつつも話し始めました。夕顔は元々三位中将の娘だが、仔細あって(つまり娘・玉鬘の父である頭中将とのこと)があって人目を憚って五条に住んでいたといいます。その後光源氏との出会いや歌のやり取りから深い関係になったこと、夕顔の邸宅があまりにも凄まじいので光源氏と「何某の院」へと移ったこと、そして夕顔の儚い死。僧が夕顔に遭ったのは、彼女の娘の玉鬘の縁の地から出てきたからだろうという話になりました。

▲能「夕顔」中村昌弘(撮影:辻井清一郎)

後場では僧が夕顔の霊を弔っています。そこへ囃子の音とともに現れたのが後シテである夕顔の霊。夕顔の花を思わせる白い長絹に淡い鬱金色の大口(袴)を身にまとっています。自分がどのように恐ろしく物の怪によって命を落としたのか、弔いをしてほしいと僧にうったえました。今では廃墟となった何某の院があの時の記憶と思いを呼び起こす、光源氏への恋心、来世でもと言った光源氏だけを頼りについてきたと……。
ここでシテの序の舞となります。昔を思いながら舞う姿は、翳りの中に見える美しさを隠せません。静かさ、儚さ、あわれさ、ふっと落ちてゆく夕顔の花そのもののようです。舞を見ていると、シテの雰囲気が少し変わってきたような気配がしました。僧の弔いを受けたことで、成仏想いに縛られてきたこれまでとは違い、「嬉しい」とまで言った夕顔の霊は、とても控えめながらも喜びを表します。
夕顔は僧の弔いにより迷いから抜け出し、成仏できたのです。能楽堂全体の空気も、澱みが抜けて清らかになるようでした。

公演後は成田達志師(小鼓方幸流)と友枝雄人師(シテ方喜多流)の進行によるアフタートーク。途中からシテをつとめた中村師も加わり、実直な感想や思いを伺えました。

 出演者スペシャルインタビュー|シテ方・中村昌弘師

■五流競演への想い
「渋谷能」でのシテは2巡目となりましたが、1回目『熊野』と同じく他流儀の皆さんもいらっしゃる中でやるわけですから、プレッシャーがありますね。同時に、舞囃子も含めて負けたくないという気持ちもどこかにあります。変な緊張感もあったりして。
佐々木多門さん(喜多流)も他流儀のお舞台を観ていらっしゃったといいますし、僕も(髙橋)憲正さん(宝生流)の『藤戸』も全部観ました。能楽師って能を観ることを純粋に楽しむことはできないですけれど……。今年度なんて鵜澤光さん(観世流)は『野宮』じゃないですか。『落葉』(金剛流・宇髙竜成師)は金剛流のみに伝わる曲なので拝見したことがなく、物語があまりわからないですけれども、今年度のテーマは通して『源氏物語』ということで、慌てて『あさきゆめみし』(※)を読んでみましたよ。あの落葉(の宮)をどうおやりになるのか、とか。
(※)『あさきゆめみし』……漫画家・大和和紀氏による『源氏物語』の漫画化作品

■原稿用紙の謡本
事前講座でもお話しした通り『夕顔』の謡本は、分家などに残っていたものを集めて解読し、編んで作られました。復曲した謡本は原稿用紙に書かれたものです。まだ刊行されていません。製本化しようかという話も出ているんですけれど……いまのところは原稿用紙に金春安明先生がペンで書かれた節がついている状態です。残っていた各家から集めた時に内容の相違があれば、並列して書かれていますね。他流の現行曲を参考にして「他流ではこう書いてある」とメモに残してくださったり。

■重さ、暗さの中にも匂わせたい夕顔のかわいらしさ
夕顔については『半蔀』で慣れているので……『源氏物語』前半のヒロインで、非業の死は遂げてしまいますが、なにかかわいらしいイメージです。なんとなくホワーンとして嬉しい~っていう感じですけれど、『夕顔』はそうではないですね、結構難しくて。以前古典好きな大学生に夕顔の人物像について聞いてみたら、積極的なイメージがあると。ほら、自分から文を出したりしているじゃない。でも、その子には「『夕顔』は好きなようにやっていいと思います」って言われちゃって(笑)。

『夕顔』ではどうも暗いものが漂っていて、さてどうやろうかなと。『夕顔』はうちの流儀では復曲したばかりですので、他流の方々がおやりになるものに見劣りしないようにとどこかで意識はしている気がします。

結局、かわいらしいイメージは持っているんですよ。最終的に玉鬘(夕顔の娘)の話にもなるじゃないですか。光源氏が手を出そうとしたり(笑)。亡き人の想いとかで、光源氏って亡き人大好きじゃないですか。そういう感じ。可憐でかわいらしいっていう。

『夕顔』だとそれは結びつきづらいところはあるかもしれませんね。重たい曲と考えると。そこは悩んでいるところでもあります。陰があるところに光がある、その光のためにどこに陰を作るか。かわいらしさがどこかにないと、重苦しいだけになっちゃう。陰が濃すぎてもいけない。『夕顔』は陰惨な曲ではないわけですから。

例えば『角田川』(他流では『隅田川』表記)も救いが無いようにみえて、最後は若干少し救われる要素がありますけれども、『夕顔』はそういう曲ではないですが稽古をしていると「どうも暗いな」という部分がまだ打ち破れないというところにいます。



■自分なりに出した「答え」を舞台で観てほしい
事前講座でも言いましたが、『夕顔』を舞うにあたって、自分の中の問いかけに対する回答を出さねばならないなぁなんて思っているところです。

出さないといけない。難しいところで、能って型どおりにやればそれなりに見えるんです。でも「それでいいのかな?」って思うようになりました。自分なりにここまで積み重ねてきたものがあり、稽古でやってきたなかから「こうじゃないか」というものは見せないといけない。何も考えないで舞う時期はもう過ぎたなと。少なくとも「渋谷能」で立ち合いの形式でやるわけですから「何もわかりません」ではダメですよね。研鑽の場でもあるでしょうが、研鑽そのものではない。やはり流儀としてしっかりしたものを出すには「わかりません」じゃいけません。何かしらの答えを出さなければならない……と敢えて自分を追い込んでいるところです。

流儀の中では前例の少ない曲ですから、覚える方に必死になるわけですよ。自分の中で膨らませていくのも大変かなと思うところもあります。その中でも、何か出さなければならない、ちょっと悲壮な感じかもしれません(笑)。少なくとも今は「楽しもう」という気楽さはないですね。
苦しみぬいてからやりますので、ぜひ舞台でその答えを観てください! という感じでしょうか。途中に『半蔀』にならないようにしないとね(笑)。

実際にお役をつとめてみて……まず面(おもて)ですが、本番当日の楽屋でギリギリまで悩みました。結果、一番あどけない顔を選びました。後シテの装束は白の長絹に大口は鬱金(うこん)、そこへ紺色の紐で締めるというコーディネートにしました。

舞台については、シテとして出る前に、既に舞台に出られている皆さんで場を作っていただきました。後場ではしっかりと舞うことを心掛け、スピード的にはゆっくりと。舞っているうちにどんどん乗って楽しくなるという曲ではないですけれど、最後に成仏する……お囃子がもうとても凄かったですね。